28年前を振り返る!
2023年1月17日(火)・・・
今から28年前の1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生した。
早朝起こった巨大地震は最大震度7、死者6434人、行方不明者3人の甚大な被害をもたらした。
今日神戸市では、早朝から被災した人々の霊を慰めしずめる鎮魂式典を催し、早朝から多くの人々がロウソクを灯した。
当時の衝撃的な映像は今でも鮮明に覚えている。
地震発生から徐々に陽が昇ると現地の悲惨な光景がリアルタイムに映し出された。
横倒しになった高速道路・・・
落下寸前のバス・・・
倒壊した建物や傾いた大きなビル・・・
あちこちから火の手や煙が上がる上空からの火災映像など・・・
いずれもこれまで見たこともない衝撃映像が次々に映し出され、被害の凄さを目の当たりにした。
あれから28年、時の経つのは早い。
今では被災地もすっかり新たな街並みに生まれ変わった。
でも、それは表向きだけかもしれない。
被災地はもとより、多くの人々は毎年1月17日を迎えると、あの日の忌まわしい出来事が走馬灯のように蘇っているに違いない。
運よく一命を取り留めた人々・・・
家族や身内を亡くした人々・・・
怪我をして不自由な生活を強いられた人々・・・
火災で住まいを失った人々・・・
仕事を失い路頭に迷った人々・・・
大勢の人々がこの日が訪れる度に過去の忌まわしい出来事を回想していることだろう。
あの時・・・
私が在籍していた新聞社で義援金協賛広告と称し、様々な企業に協賛広告をお願いしたことを今でも想い出す。
当時は多くの人々や企業が被災地の支援活動を行った。
私が在籍した新聞社も義援金協賛広告の一部100万円を神戸市に贈り、復興に役立てもらった。
後に当時の神戸市長から礼状が届いたことを今でも覚えている。
同業他社の中には企業から同様の義援金協賛広告を募り、そのまま懐に仕舞った新聞社もあったそうだ。
人の不幸に乗じて金儲けするような企業は碌な会社じゃない。
実際、そんな企業は意外に多いのかもしれない。
その点、私が在籍した会社は些少ながらも義援金を実際に贈った。
そして、そこに自分も携われたことが今となってはせめてもの慰めかもしれない。
でも・・・、実はこれには後述談がある。
当時、私の先輩のS野氏と新橋の居酒屋で呑んだ時、「ライバル他社は義援金協賛広告を出稿した企業に、関連団体から来た令状を見せ、義援金を贈ったことを証明している」とS野氏がボヤいていた。
S野氏は酩酊するまでボヤキ続け、挙句に私がタクシーで自宅まで送り届けたことを今でも覚えている。
当時は私も若かった。
S野氏がなんでそんなにボヤいたのか理解できなかった。
しかし後日、S野氏がボヤいた理由が理解できた。
S野氏はT己社長が居るのを見計らい、編集部長のI原氏に「他の新聞社は義援金協賛広告の令状記事を掲載している。ウチも掲載した方がいいんじゃないですか」と社長が居る前でこれ見よがしにI原氏に進言していた。
それから数週間が経過・・・
今度はS野氏が居る時、T己社長がI原氏に「神戸市長から義援金の令状が届いた」と、S野氏に聞こえるように自慢げにしゃべっていた。
一連のやりとりを見ていた私は、S野氏が居酒屋でボヤいていた意味を理解した。
いま思えば、当時から何かにつけて考えさせられることが多い会社だった。
阪神淡路大震災から28年経った今では、それも一つの教訓に過ぎない。
フリーとなった自分が改めて地域社会に貢献できるとすれば、ふるさと納税くらいかもしれない。
今から28年前の1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生した。
早朝起こった巨大地震は最大震度7、死者6434人、行方不明者3人の甚大な被害をもたらした。
今日神戸市では、早朝から被災した人々の霊を慰めしずめる鎮魂式典を催し、早朝から多くの人々がロウソクを灯した。
当時の衝撃的な映像は今でも鮮明に覚えている。
地震発生から徐々に陽が昇ると現地の悲惨な光景がリアルタイムに映し出された。
横倒しになった高速道路・・・
落下寸前のバス・・・
倒壊した建物や傾いた大きなビル・・・
あちこちから火の手や煙が上がる上空からの火災映像など・・・
いずれもこれまで見たこともない衝撃映像が次々に映し出され、被害の凄さを目の当たりにした。
あれから28年、時の経つのは早い。
今では被災地もすっかり新たな街並みに生まれ変わった。
でも、それは表向きだけかもしれない。
被災地はもとより、多くの人々は毎年1月17日を迎えると、あの日の忌まわしい出来事が走馬灯のように蘇っているに違いない。
運よく一命を取り留めた人々・・・
家族や身内を亡くした人々・・・
怪我をして不自由な生活を強いられた人々・・・
火災で住まいを失った人々・・・
仕事を失い路頭に迷った人々・・・
大勢の人々がこの日が訪れる度に過去の忌まわしい出来事を回想していることだろう。
あの時・・・
私が在籍していた新聞社で義援金協賛広告と称し、様々な企業に協賛広告をお願いしたことを今でも想い出す。
当時は多くの人々や企業が被災地の支援活動を行った。
私が在籍した新聞社も義援金協賛広告の一部100万円を神戸市に贈り、復興に役立てもらった。
後に当時の神戸市長から礼状が届いたことを今でも覚えている。
同業他社の中には企業から同様の義援金協賛広告を募り、そのまま懐に仕舞った新聞社もあったそうだ。
人の不幸に乗じて金儲けするような企業は碌な会社じゃない。
実際、そんな企業は意外に多いのかもしれない。
その点、私が在籍した会社は些少ながらも義援金を実際に贈った。
そして、そこに自分も携われたことが今となってはせめてもの慰めかもしれない。
でも・・・、実はこれには後述談がある。
当時、私の先輩のS野氏と新橋の居酒屋で呑んだ時、「ライバル他社は義援金協賛広告を出稿した企業に、関連団体から来た令状を見せ、義援金を贈ったことを証明している」とS野氏がボヤいていた。
S野氏は酩酊するまでボヤキ続け、挙句に私がタクシーで自宅まで送り届けたことを今でも覚えている。
当時は私も若かった。
S野氏がなんでそんなにボヤいたのか理解できなかった。
しかし後日、S野氏がボヤいた理由が理解できた。
S野氏はT己社長が居るのを見計らい、編集部長のI原氏に「他の新聞社は義援金協賛広告の令状記事を掲載している。ウチも掲載した方がいいんじゃないですか」と社長が居る前でこれ見よがしにI原氏に進言していた。
それから数週間が経過・・・
今度はS野氏が居る時、T己社長がI原氏に「神戸市長から義援金の令状が届いた」と、S野氏に聞こえるように自慢げにしゃべっていた。
一連のやりとりを見ていた私は、S野氏が居酒屋でボヤいていた意味を理解した。
いま思えば、当時から何かにつけて考えさせられることが多い会社だった。
阪神淡路大震災から28年経った今では、それも一つの教訓に過ぎない。
フリーとなった自分が改めて地域社会に貢献できるとすれば、ふるさと納税くらいかもしれない。